「ごまめの歯ぎしり」
私がブログをはじめてしばらくの頃、某議員のブログが私のブログと同じタイトルであることに気がついた。投稿からすると、悔しいことに、彼のほうが私より前にはじめたようだ。
この議員は、何代にもわたる世襲議員一家に生まれ、当時から海外との太いパイプを持つ、将来を嘱望される若手であった。しかし、政権与党内で反原発を唱えるなど、私にはどこか世俗から浮いたような存在に感じられ、好ましく思えた。
強力な政治的バックボーンを持ちながらも政権与党内では相手にされない状況で、いろいろ国の将来を憂いて発信し続けている彼のブログは、まさに「ごまめの歯ぎしり」そのものだと思われたのだ。
まあ、駿河地方でも「ごまめ」を関西と同じ意味でつかうのかということに違和感を感じてはいたし、議員本人にはひねくれて嫌味なやつだとも感じていたのだが。
しかしながら、当時の彼の主張と与党内から反対を唱える強い気持ちに敬意を示し、自分のブログの名称をほんの少し変更し「ごまめの歯ぎしりっ」と「っ」を加えて改題したのだった。
「ごまめ」の意味
「ごまめ」とは、一般に、カタクチイワシの稚魚を乾燥させた食品のことを指す。まあ、いりこやだしじゃこのことだ。
ひるがえって、私の出身地である関西地方では、「ごまめ」は、「鬼ごっこをやったときに、捕まっても鬼にされることのない、グループ内でもひときわ年齢の離れた、小さいこどものような存在」の意味でも使う。
だから私は、「ごまめ」には、「取るに足りない存在」の意味と「将来のために大事にされた存在」の意味があるのではないかと考えている。
某議員の今の姿
私がブログをはじめてからでも20年近く過ぎた。この議員は政権内の重要な役職をいくつも経験し、その強力な発信力もあって、いまや押しも押されもせぬ政権与党内の大物議員になっている。
彼に対する私の印象もかなり変わった。知らない間に「原発反対」の姿勢は消えてなくなった。また、自分が行いたい施策については強力に発信するが、なぜその施策を選んだのか、どういう議論がどこでどのように行われたのかなどの説明は充分ではないように思われる。
記者会見などでは、これらのことを質問されると「はい、次」、「はい、次」と取り付く島も無い対応を繰り返す姿が映し出された。この姿は「マイナ」問題のはるか以前、おそらく「外務大臣専用機」あたりから始まったように記憶している。
彼の姿は、もはや強権的、独尊的であり、今はもうどこにも「ごまめ」らしき姿はない。
なにが言いたいのかというと
私は「ごまめの歯ぎしり」とは、「取るに足りない存在が、歯ぎしりして悔しがること」から、「小人がなにを憤っても、大勢は動かず、何も変えることができない」ということだと理解してきた。
つまり、自分が「小人」であることを充分に認識した上で、プリミティブかもしれなくとも自分の意見をしっかりと主張し、結果、大勢を覆すどころか何の変化をもたらすこともできないことを悔しがる、ということだ。
一方、この議員は、もうかなり昔に「ごまめの歯ぎしり」する段階は通り過ぎている。「小人」であると、自己卑下する時期はとうに過ぎているのだ。この議員は、いつまで「ごまめ」のつもりなのだろうか? 総理大臣になるまで「ごまめ」だという意識でいるのだろうか? それとも、「Dictator」になるまで??
私は、もう彼のブログはタイトルを換えるべきではないか、という「ごまめの歯ぎしりっ」を今感じているのである。で、正式に私に「ごまめの歯ぎしり」のタイトルをくれないか?
と、彼のブログを久しぶりに開いてみた。このしっかり作り込んだ WordPress サイト、UIも良く考えられてるし、とてつもなく快適な速度で遷移するよ、ちくしょう、すごいな。